味わいという価値。

尾道デニムと呼ばれるジーンズがある。
普通の価格の2倍もする。
これは大工、農家、料理人などが1年間はいて
イイ感じに擦れてこなれたジーンズだそうです。
ひとり1年間で2本生産できる(1週ずつ交互にはく)。
確かに仕事でついた味わいがカッコいい。
こういうところに照準が合わせられるセンスでいたいですね。

ならぬことはならぬものです。

ハラスメント。
パワハラ。セクハラ。マタハラ。モラハラ。
本人にはどうしようもないことがある。
それを差別する人が嫌いです。
どうしようもないことには、救いがあるべきだと思う。

一発OKなときもある。

とある静かな土曜日の朝11:00頃のオフィスに、某研究所の方から電話が入る。
ご用件は……ご自身の研究された成果を総務省で発表したいから相談に乗ってもらえないか?とのこと。電話から推測するとカルク出来そうな感じでしたし、ナニよりお急ぎのようでしたので、翌々日の月曜日朝一でアポイントをいただきました。
当然ながらお伺いするには、ある程度の予習は必須です。
ところが、電話でお聞きした断片的な専門用語と、お電話いただいた方の会社名と苗字しかわかりません。
ネットで検索しても、これから発表する研究なわけですから出てくるはずありません。とはいえ、ベースになっている考えとかだけでも仕入れてゆかないことには、子供のつかいになってしまう…おまけに名古屋まで行って空振りもキツイ。
とりあえず大型書店に行って探すしかナイ!
関連しそうな書架を探しても見当たらない。もっとシブイ書店を選択すればよかったのか??
案ずるより産むが易し、書店員さんに検索してもらうとスンナリ発見。
但し、今は倉庫にあって、急いで取り寄せれば翌日の日曜日夕方には書店に着けられますが…。スグに予約して、翌日の夕方に購入することに。
とはいえ、本が到着するまでに少しでも学習しておきたい。
さっきの書店員さんに「関連する書籍はありませんか?」と尋ねると、2冊の本を出してくれた。
親切な書店員さん。
ありがとう。
早速、パラパラと眺めてみると…お目にかかったことの無い記号さんたちが不規則に集まってらっしゃるページや、どこかですれ違ったときにご挨拶だけさせていただいたような気がする数字の配列さんたちに出くわしたのです。
これは私たちのような者が拝読させていただけるような代物ではないので、そっと閉じて丁重にお返し申し上げました。
それにしても、本を出してくれた書店員さんはナニモノ?!
翌日、本が到着。ファッション誌ふうのサイズにホッとしながらも、価格はズッシリ。
ファッション誌ふうだから、ナナメ読みすれば一通りアタマに入るだろうし、一つのテーマについて複数の人が論じているだけだからドーッテコトないだろうなと思いながら、スグ近くの喫茶店でパラパラっとめくってみると…お電話いただいた方の論文が見つかりましたー!
でも、馴れないせいか全然アタマに入ってきません。全体のイメージはできても、パートごとの理解が進まない。記号さんたちを飛ばし読みしているせいか……?
意地になって何度も読みなおしているとトランス状態に到達。ランニングハイなみに気分が高揚してくる。
ハイな気分のまま、ナンとなーく理解できたような気分になり、少しだけ落ち着く。書斎でくつろぐ学者風にコーヒーの香りを鼻で吸い込みながらヒトクチ。
落ち着きを取り戻したところで、他に掲載されている論文も参考程度に眺めておこうかなーと思って読み始めてみると…同じ研究内容についてアプローチの異なった内容が書いてある。ディテールが違うとかナンとかいった次元ではなく、そもそもの言い分が違っている。…まさに目がテン。
舐めてかかったら…痛い目にあう実感をジックリ味わう。
しかも、産学協同研究らしく共同で行っている実験を「産」「学」「公」別々に10くらいの立場で書いてある。さらに、それぞれ少しだけ~やんわりと他社の研究を批判したりしている。誰と誰が見方で、誰が敵なのか?どこが優れているのか?ビミョーです。
この感想は邪魔なだけなのに、半笑いで読んでしまう。
このままだと、面白かったー!という小説を読んだ後の満足感だけしか残らなくなる。
マズイ!引越のときに見つけてしまったアルバムくらいマズイ。
~このあたりから本格的に焦り始める。~
これはオフィスに戻って、全部を読んでメモに書き出しながらネット検索しながら解読するしかない!
結局、わからないところがわかるまで翌月曜の朝5時までかかった。
そこからスグに着替えて、新幹線に乗って名古屋駅で乗り換え、名鉄で最寄り駅からバスに乗り換え、守衛さんとセキュリティを通過して、9時30分着。
カーク船長が登場しそうな意味深な自動ドアを通り抜け、会議室へ。
名刺を交換して、説明の前置きを聞き始めて5分たったときに、論文を拝読しまして理解できている範囲がココまで、曖昧な範囲がココ以降ですとお伝えすると、笑顔で「なーんだ…では、御社にお願いします。よろしく。」と一発OK! プレゼンもしていないのに…。わからないトコばっかりなのに…。それから今後のザックリしたスケジュールを打合せして研究所を後にしたのが10時20分。約50分の面談でした。
こういう決まり方ってアリなんだよなーと、シミジミしながら帰途へ。
わかったつもりで、わかったふうの顔をしなくて良かったーー。

がん哲学外来

がん治療には
QOL=Quality of life(クオリティ オブ ライフ)が重要で、がんを患ってから人生をどう生きるかを考える。
もう一つは、
QOL=Quality of die(クオリティ オブ ダイ)どう死んでゆくかを考える。
生きること死ぬことを俯瞰で捉える哲学なんだろうな。

研究員のノルマはキツイ

とある研究所へインタビューに伺い、研究者にもノルマのようなものがあるとお聞きして驚きました。
それは研究の進捗報告や成果発表などという生易しい話ではなく、特許の出願件数なのです。もちろんアイデアがあればイイというわけではなく、重複はもとより出願しようとする特許や周辺の状況を事前に調査しておくなど作業ボリュームも相当なものです。
これらを四半期ごとに上司に報告を求められるのですが、追い立てられると辛くなるので、次の次の期くらいまで準備をしているとのこと。とはいえ、どうしてもまとまらなかったりする時には部内で助け合いしたりもするそうです。それにしても特許がノルマとなると精神的にキツイでしょうね~。
次々とアイデアを出し続けなければならないというのはタイヘンです。そこで思わず、どんなときにアイデアが湧いてくるのですか?とお聞きすると「四六時中ズーっと考えていて、風呂に浸かった時や、子供と遊んでいるときにフッと浮かび上がる」と。
引っぱっていたゴムを少し緩める感じですね。当然ながら、切れるかもしれないくらいにギュッと引っぱっておかないとフッとは出てこないんでしょうね。

パッケージ業界の展示会

石油化学製品を扱っている会社で、カレーやシチューに用いられているレトルトパッケージを学習したときのこと。
レトルトパッケージの仕組は簡単で、ザックリ言えば「缶詰を持ち運びやすくしたもの」です。(あくまでザックリです)
パッケージは2枚のシートを接着して袋型にされていますが、初期の頃は接着剤の匂いがキツイため、カレーにしか採用できなかったそうです。今は、接着剤~シートの改良も進み匂いが問題になることはありません、とのこと。技術革新の進み方がわかる一例です。
などと、専門家にしてみれば、今さらどうということのない話ですがとても感心してしまった。
当たり前すぎるコトながら、ナゼかこのあたりからレトルトパッケージに興味を持つようになってしまった。
レトルトカレーの箱を開けるときにも、箱から取り出すときの感触を確かめながら行う。
ややキツイと「あっ取り出しにくーい」というストレスが発生する。
この感触が少し強めにギュッとした感じだと「具材が大きいかも!」という期待感と「イモだったらハズレだな…」というガッカリ感が交錯する。
そこで思わずパッケージの上から触診をして「お肉だー!しかも、大1+中1!」となると、北極の氷壁が海に崩れ落ちるように、四角い肉が繊維に沿って縦方向に崩れ落ちてゆく噛み心地が思い浮かんでガゼン鼻息が荒くなってしまう。流石はレトルト!缶詰にはできない大仕事です。
反対にスンナリと出てしまったときには、ミンチ肉の夏野菜カレーだったか!と、カレーがゴハンの上を力なく流れ落ちて赤土が剥き出しになったハゲ山が想起されてしまう。これではカレー味のそぼろ入り汁かけゴハンじゃないか!インドやタイあたりの南方のカレーにありがちなユルイ感じに指先が震えてしまう。これは明らかにパッケージデザインの偽りです。カレーではなく、汁かけゴハンの汁とハッキリ表記してもらいたい。
やっぱり日本のカレーは、ゴハンの白壁にガッシリと留まって微動だにしないくらいの根性が欲しい。ともすれば、ソバ屋のカレーのように片栗の薄膜をまとってもよし。
パッケージといえば、箱にも不満がある。
開封後の状態をナンとかしたい。
路上で殴り倒され、そのまま放置されたように転がっている姿が無残すぎる。
売り場で存在を高らかに主張し、意味も無いままに幾度となく揉まれてもシワひとつ残すことなく中身を保護してきた役割を終え、脱力したいのはわかる。よくやった!ご苦労さん、と声もかけてあげたい。
クッキーの箱のように可愛く流用できないのもわかる。しかしアレはいくらなんでもマズイ。
レトルトパッケージだって、さっきまで湯煎されて艶々と湯上り美人だったというのに、力任せに陵辱されて痛々しい姿となっている。箱とすれば取り返しがつかない状況を目の前にして無力感に苛まされる気持ちもわかる。立っているのもやっとのことだろう。ツライ。痛恨の極みだ。
でも、このタイミングでこそグッと歯を食いしばり、箱を上着のようにそっと肩にかけてあげるくらいの気遣いは欲しい。優しさとはそうゆうものだ。
などと、このあたりまでシミュレーションして箱をデザインしていれば、中身は推して知るべしである。箱のグラフィックやネーミングに凝るのも大切ですが、五感に訴えるデザインを工夫しても面白いかもしれません。

心はどこにある?

ソチオリンピックが終わった。
流石にトップアスリートの戦いはスゴイ!
惚れ惚れする。
あのレベルまでいってしまうと、テクニックとかフィジカルとかの差は関係ない。
メンタルの差なのだと思う。
メンタル=心
「心が折れる」と、本来のパフォーマンスが発揮できなくなる。
とあるスポーツドクターが言っていた。
病気やケガ~痛みや違和感があると、心が折れやすくなる。
心が折れないようにするには、身体を強く健やかに保つこと。
心は、身体にある。
そういえば、身振りで心を表すとき胸を指す。

バニラアイス

アイデアを抽出するときには、イロイロな角度から切り込んでみたり、距離感を調整してみたり、回転や反転させてみたり、思いつく限りのアプローチで考えをめぐらしてみます。
例えてみれば、31種類のアイスクリームを全部食べてみるということです。全て味わってみて「やっぱりバニラだね!」という結論に至るのです。
これは、他のアイスには目もくれず、最初っから「バニラだよーっ!」と食べるのとは大きく違います。
結果は同じでも、プロセスがまるで異なるのです。当然ながら、プロセスが異なると意味も異なってきます。
一つ一つのアイスを味わい、特徴を掴みながら試行錯誤を繰り返して行き着いた先に「やっぱりバニラだね!」という結論には重みというか、飛ばしてはいけない階段があるように思います。
「バニラだよーっ!」のような、安易に手近で馴れた解決策で間に合わせてしまえ!といったことではなく、良い意味で徒手空拳というか暗中模索ぎみに、もがき苦しんで「やっぱりバニラだね!」と見出す基本動作から生まれるものかもしれません。これは一見、非効率で要領の悪い手順のように感じるかもしれませんが、実は「ビジュアル化」する際には大きく影響するのです。
「やっぱりバニラだね!」は、最近の「小説を映画化する」場合にも見受けられます。映画のスタッフが作者にビジュアルイメージを聞取り「ビジュアル化」してゆきます。
例をあげると、小説に「後を追っていると、すぐ先を曲がったところで忽然と姿を消してしまった」とあった場合、コレを「ビジュアル化」するには、追っている風景、時間帯、天候、通行人、服装、髪型、体格、年齢、性別、足音、息づかい、距離、曲がる方向・・・などなど、あらゆる設定を決めなければシーンが描けません。つまり「ビジュアル化」できないのです。同じ文章であっても「ビジュアル」によって全く違った印象になってしまいます。
「ビジュアル化」には具体性が無ければ成立しないのです。
アイスの事例から少しズレてしまいましたが、基本動作を見くびると「ビジュアル化」といった表現には行き着かないのは同じです。どんなに面倒くさくても時間が無くても、基本動作から逃げない姿勢で制作してゆかなければなりませんね。

未だ戦時思想は終わらない。

特攻隊。
一億火の玉。
一億総活躍。
某自動車メーカーの不正。
PTAの任意という建前の強制加入。
保育園建設反対。
この国は、一体いつになったら同調圧力の怨念から解放されるのだろう。

観察映画

想田和弘という映画監督の作品が面白い。
ドキュメント映画だけど「観察映画」というジャンルらしい。
シナリオも台本もナシに撮り始めてしまう。
自宅のPCで編集して単館で上映してしまう。
DVDレンタルも行なわない(→儲からないから)。
作品には、ナレーションもBGMも一切ない。
淡々と撮影される。
良くも悪くも「観察」している。
ただただ日常を「観察」してゆく。
でも日常には、悪意ある言葉や目を背けたくなるシーンがある。
それらを「観察」する。
久々に面白い日本映画に出会った。